プロフィール

沢井忠夫 →English
「一音の生命力とは、日本音楽の根源ではないだろうか」

 小学5年の頃から尺八家の父に導かれて箏を習い始めた沢井は、間もなく八橋検校の難曲「みだれ」を演奏するまでに上達し、高校時代から作曲を始めた。そして、東京藝術大学邦楽科の卒業演奏に宮城道雄の「手事」を選んだことから宮城作品が箏曲の古典に深く根付いていることを知り、邦楽が持つ“一音の生命力”に気づいたという。
 同大専攻科を卒業して演奏家となると、山本邦山ら尺八奏者と「民族音楽の会」を結成(1964年)する一方、ポピュラーやジャズ、クラシック音楽にも積極的に挑戦。既存の概念やジャンルの壁を越えた取り組みは、「現在の生活に密着した音楽を作らなければならない」からだった。
 70年代後半以降は「世界中の人たちにこの素晴らしい楽器を理解してもらいたい」と、武満徹氏が監修したパリでの音楽フェスティバル(1978年)に参加、ヨーロッパやアメリカ、アジアなどでも演奏活動を展開した。
 平行して、日本の人たちにこそより邦楽に親しんでもらい、若手の演奏家や指導者を育成しようと「沢井箏曲院」「沢井忠夫合奏団」を設立(1979年)、古典の勉強会や「お箏を弾く人もうひとりキャンペーン」なども行った。幅広い音楽活動は、文化庁芸術祭優秀賞の3度受賞、松尾芸能賞や中島健蔵音楽賞などの受賞で、高く評価された。
 「問題は、現代邦楽をどう発展させるか。宮城道雄さん以降と、前衛的な現代邦楽との架け橋というか、その空白を埋める曲がない。作曲をもっと勉強し、古典も掘り下げたい。そして自分だけの世界を作り出してみたい。」
 そう語っていた沢井が59年の生涯で残したレコードやCDは100枚を越え、作曲した作品数は90を超える。その作品は現在、コンクールなどでもよく取り上げられ、流派を越えて多くの演奏家に演奏されている。

■ 邦楽用語のミニ辞典

箏 (そう、こと)
三弦・三味線 (さんげん・しゃみせん)
十七弦箏 (じゅうしちげんごと、じゅうしちげんそう)
邦楽 (ほうがく)

沢井忠夫 書